2021年12月5日 待降節第2主日礼拝(アドベント)
蝋燭(平和の灯):讃美歌21‐242‐2番
聖書:マタイによる福音書2‐13~23
説教:「ヨセフの役割」
法亢聖親牧師
讃美歌:21‐463、469
(Youtube配信はありません)
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によってやどったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
(マタイ1:20、21)
イエスさまの母親のマリアの事は、聖書に詳細に記されていますが、父親のヨセフについては、マタイが1章と本日の2章に記しているだけです。しかしマタイは、キリストのご降誕にとってヨセフは欠くことのできない重要な人物であることを伝えています。
主の天使はこのヨセフに三度夢を通して現れました。最初は、有名な夢です。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1:20)。ヨセフは、マリアが婚約中に身に覚えのない子を身ごもったことでさんざん悩みましたが、この夢を契機にマリアのお腹の子を自分の子供として認知しようと決心し天使の言葉に従ったのです。
二度目はヨセフに現れた天使はこう告げました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(マタイ2:13)。このお告げもよく考えてみればご無体なお告げです。赤ん坊は、かわいいですが、自分の子供ではありません。聖霊によって生まれた子供です。しかも産後間もない妻と乳飲み子を連れて遠いエジプトの地に行きなさいというのです。この時もヨセフは、祖国を離れ、異教の地エジプトに行くためにどれだけ悩み大きな犠牲を払ったことでしょう。
それから天使はもう一度(三度目)エジプトの地で、ヨセフの夢に現れてこう告げました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(マタイ2:20)。天使のお告げで、ヘロデ大王が死んだことを知り、再び妻マリアと幼子イエスを連れてイスラエルに戻りました。だが、ユダ(かつての南イスラエル)の後継者はヘロデ大王の長子アルケラオスであって父王と性格が似ており危険を避けて、弟のアンティパスが治めていたかつては北イスラエルであったヨセフの故郷のガリラヤ地方のナザレに直行しました。こうして、イエスさまはエッサイ(神は存在する)の子ダビデ王の故郷ベツレヘムで生まれ、ダビデ王家の血筋を引く父親のヨセフの故郷ナザレの町で育ち、ナザレのイエスと言われるようになったのです。
マタイは、ヨセフについて語ったすべてのところで、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」というように記しています。マリアの受胎をヨセフに知らせたところでも、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことを実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:22、23)と記しています(イザヤ7:14、8:8,10)。マタイは、そのように旧約聖書の預言を引用することによって、すべてのことは神さまのご意思によって進められたと言おうとしたのです。
それでは、ヨセフとは、どういう人だったのでしょうか。ヨセフの人物像に少し触れてみたいと思います。マタイ福音書の最初にだけ登場していることから、イエスさまが日本でいう成人は20歳ですが、その20歳になる前までに世を去ったのではないかと言われています。ですから、絵画では聖家族のヨセフは老人として描かれていることが多いのです。人生僅か50年と言われた時代の30歳、40歳はそう若くはないということでしょうか。初老40歳前後ではないかとも言われています。いずれにせよヨセフは、年若い13歳か,14歳であったマリアの危機を救い、イエスさまをヘロデ大王から守り、幼き時からイエスさまに大工の仕事を師匠として叩き込んだ人物です。そのことによってイエスさまは、父亡き後、大工として一家を支えることができたのです。そのようなわけで、ヨセフの生涯は、イエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを引き受け、その命を守るためにささげられたといっても過言ではないと思います。
聖書の中のヨセフは、一言もしゃべってはいません。彼の姿はただ「信仰の服従」という一語に尽きると思います。神さまの救いの計画は、このヨセフがどんな困難に見えることでも信仰の服従をし、彼の信仰の服従を通して前進していきました。ヨセフの「信仰の服従」、ここにマタイがヨセフを福音書に記した目的があり、ヨセフがイエス・キリストの父親として担った大切な役割があります。
私たちにも、このヨセフのような「信仰の服従」が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲が伴うことでありましょう。イエスさまもおっしゃっています。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)と。しかし、私たちが犠牲を払って主に従っていくときに、かえって私たち自身が主に支えられるという経験をするのではないでしょうか。「クリストファー伝説」は、その真理をよく解き明かしています。「渡し守のクリストファーが、嵐で渡河禁止の日に一人の少年のたっての頼みを受け入れ、少年を背負って急流の中に一歩一歩入っていくと、不思議なことに一歩一歩踏ん張って進めば進むほどに少年の体重がずしりずしりと重くなっていったのです。そして、彼は、水をかぶりながら、足を踏ん張って何とか川を渡り切り、その少年を見送った後、彼は悟りました。もしあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されていたに違いないと。その少年こそキリストであったのです。クリストファーは、『少年を運ばなければ、守らなければ』、と必死の思いでしたが、逆に不思議にも、神さまのお力に守られていたのです。ヨセフも何度もそのような経験をしたに違いありません。どんなに厳しい現実の中であっても、それはすべて神さまがご存じなのです。私たちはその神さまの御手の中を歩んでいくことがゆるされているのです。